[THE SECOND HALF]Sarut Hiro 廣川 輝雄

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 奉公先での修行も数年が経ち、ジャケットまでは一人前に縫えるようになった。しかし、ただ縫えるだけでジャケットはおろか比較的シンプルなパンツですら型紙が起こせない。常に技術の習得に向上心を燃やし続ける廣川の心の中で、製図を学びたいという思いがいつしか強くなっていた。丁稚奉公をした者は、お世話になったお礼として1年ほど奉公先に勤める「お礼奉公」をするのが一般的な決まりごとだった。廣川もまた、22歳から早野洋服店で1年間のお礼奉公を始めた。それと同じ年にかねてからの希望だった製図を学ぶため、古くから定評のあった日本洋服専門学校に3か月間だけ通い始めた。学ぶことができたのは日本式の製図で、半紙に4分の1スケールで黙々と線を引き続けた。当時の入学金は10万円 、月謝は8千円。おそらくこの時の大卒初任給は3万円ほど。3ヶ月間の専門学校でありながら入学金がいかに高額だったかということがわかる。

 

 

 8年間におよぶ丁稚奉公が終わり、廣川が次に目指したのは「銀座 英國屋」だった。早野洋服店では注文が入らなかったモーニングコートやディナージャケット(タキシード)をどうしても縫ってみたかったのだ。たまたま目を通した新聞の求人欄に英國屋が仕立ての技術屋を募集しているのを見た廣川は、このチャンスを逃さなかった。通常ならテーラーの募集となると実技試験があるのかと思うのだが、意外にも英國屋は面接のみ。廣川はあっさり採用された。入社してすぐに、シングルスーツの仕事を任された。毛芯は出来芯、ハ刺しは”ルイス”と手間がかからないこともあったのだが、廣川はたったの2日で縫い上げた。英國屋のベテラン職人でさえ、3日かかるところである。「あいつはとにかく速い・・・!」廣川の仕事の速さはすぐに評判になった。英國屋での仕事時間は朝7時から夜12時まで。完全出来高制の職人が集まる英國屋は、工場は24時間いつでも開放されていた。正直、入社したばかりの廣川は驚いた。まさか英國屋の職人たちが朝から晩までこんなに仕事をしているとは思っていなかったのだ。出来高制のため、幸いにも時間の融通をきかせることができた。自分の仕事によって時間の調整ができ、休みたい時に休めたのだ。つまり、仕事が速ければその分だけ数をこなすことができるし、早く帰ることも可能なのである。仕事の後に一杯やって、朝7時の始業前にボーリングで汗を流してから出社するのが毎日の楽しみだった。英國屋に所属する職人の平均年齢は30歳。血気盛んな若い職人が多く、職人同士のケンカが絶えなかった。怒号とともに工場内を鉄のアイロンが飛び交い、なかには裁断用のハサミを持ち出す輩もいた。「頼むから、ハサミだけはやめてくれ!」温厚でケンカには縁のない廣川もさすがに止めに入った。なかなかスリリングな職場だった。

 

1976年、壱番館大森工場 工場長の廣川。32歳。

 

 入社してすぐの工賃は1着7200円。試用期間が終わると、1着2万円ほどに上がった。売値は20~25万円ほどだっただろうか。1960年代後半、時代は高度経済成長真っ盛り。英國屋もこの時が最盛期だった。全体の注文数は定かではないが、廣川1人だけで最高で月25着を仕立てた時もあった。1着2万円の工賃だから、単純計算すると最高で月50万円を稼いでいたことになる。閑散期といわれる2月、8月でさえ廣川1人で最低でも月13着ほど。現在の国内テーラーの受注数と比べたら、驚きの数字である。こんな時代もあったのだ。しかし、順風満帆にみえた英國屋にも次第に影が差し始めた。時代の流行を考慮した経営方針の転換により、既製服の量産を始めたのだ。廣川は英國屋を退職することに決めた。1972年、28歳のときだ。

 「廣川さん、辞めるならちょっと壱番館に顔だしてみたらどうだ?」壱番館から英國屋に移ってきた仲間のひとりが、そう声をかけてくれた。実は、もうそろそろ九州に戻って洋服屋を始めようと思っていた廣川だったが、またもや母親から「方位が悪いから帰ってくるんじゃないよ」と言い放たれ、行き場がなくなってしまっていた。福岡に住む知り合いの職人から宮内庁の洋服部の紹介状をもらってはいたのだが、何か釈然としない。宮内庁の洋服部は皇室の大礼服などをお誂えしていたところで、燕尾服やタキシードを縫えるわけではないのだ。果たして自分はどこに行くべきなのか。迷っていたところにちょうどよく、仲間が壱番館を紹介してくれたのだった。

 

廣川が40年以上愛用する、手打ち鋏「慎吾上作」

 

 「ちょっとこれ縫ってきてみてよ」初めて訪れた壱番館。その帰り際に、思いがけず仕事を託された。二つ返事ですぐに仕上げで持って行くと、その出来栄えを褒められた。「これはどれくらいで上がる?」「3日ぐらいです。4日後には持ってきます」そう言って次の仕事を預かった。そして、またすぐに仕上げて持って行く。そして次も・・・。こうして、いつしか壱番館に居着くようになった。外注職人としての仕事は3年続いた。けれど、タキシードが縫いたいのに一向にやらせてもらえない・・・。「タキシードは外に出さないんですか?」しびれを切らした廣川は中の職人に詰め寄った。「タキシードやりたいなら工場に入ってもらわないと」それならば、とついに廣川は壱番館の工場に勤めることになった。工場では見習いを教えながら黒モノ(タキシード)専門と剣モノ(燕尾:ダブルブレステッド)を担当した。1976年、壱番館大森工場の工場長になる。

 

1995年、49歳の廣川。

 

 1981年に壱番館の創業者 渡邊 實氏が英国王室から繊維業界最高の勲章である「ラムゴールデンベール」を日本人で初めて受賞。マーガレット王女に謁見を賜った。1989年には、エディンバラ公爵がご覧になる場で行われた英国王室コレクションに出品。壱番館を代表する熟練職人として、廣川は渡英した。ところがコレクション前日、廣川に試練が訪れた。リハーサル中にランウェイを歩くモデルの足元がおかしい・・・。パンツの股下が異常に長く、裾を引きずりながらランウェイを歩いていたのだ。緊張が走った。驚いたことに、モデルの実寸と上がりには5㎝も差があった。その数5本。モデルが入れ替わったとしか思えなかった。コレクションの責任者に交渉を試みたが、今から直しなんてダメだダメだの一点張り。しかし、ここはBespokeの本場英国。日本を代表する仕立て屋として出陣してきた壱番館の名誉がかかっている。廣川も譲れない。「ミュージアムに永久保存されるのにあれじゃみっともないから修理させてくれ!俺が直すから!!」なんとか責任者を説得し倒し、パンツ5本をすべて引き上げた。ホテルに持って帰ってきたのは夜21時。部屋には裁縫セットの小ばさみと針しかない。ベッドの上であぐらをかきながら必死にパンツと闘った。先方に届けたのは、4時間後の深夜1時。「It’s magic!」そこにいた誰もが驚きの表情を隠せなかった。コレクションは無事に終わり、アン王女の謁見パーティーが開かれた。夢のような豪華な一夜だった。このコレクションのために廣川が仕立てたモーニングコート・ダブルブレステッドスーツ・シングルブレステッドスーツ・ジャケット2点・パンツ2点はエディンバラのロイヤルミュージアムに永久保存されている。

 

1999年、55歳。同僚と共に新年の仕事初め。

 

 1999年、 55歳の廣川は技術指導者として、壱番館初のレディースブランド 代官山 「Bespoke Gallery」に派遣された。なぜテーラーがドレスを縫えるのか、その理由はここにある。もともとメンズ仕立てのレディーススーツは作っていたが、ドレスを縫うようになったのはこのときからだった。2005年、「Bespoke Gallery」は東京コレクションに参加。シルエットの表現が上手くいかず、最も困難を極めた。イタリアのデザイナーが送ってきた写真を見ながら懸命にトワルを組む。コレクション前は1日おきで徹夜。8時間寝たら、40時間は起きている状態が続いた。今、廣川が写真だけを見て服を作れるのはこの時の経験が活かされているからである。この壱番館のレディースブランドは残念ながら今はもうない。

 

2015年、蒲田の「アトリエ サルト」にて。

 

 61歳になり、廣川は現在のアトリエの前衛となる6畳一間の小さなスペースで若手にテーラリング技術を教え始めた。当時の生徒数は2名。初めの授業料は1回500円だったというから驚きである。62歳で体調を崩したのをきっかけに、34年間勤めた壱番館を引退。壱番館時代の廣川は、数多くの若手に技術を教えてきた。「Dittos」水落 卓宏氏をはじめ、「Vick Tailor」近藤 卓也氏、「羊屋」中野 栄大氏、「TAILOR&CUTTER」有田 一成氏、「KIRINTAILORS」江利角 卓也氏、パンタロナイオ 尾作 隼人氏など、今では国内の一流テーラーとして第一線で活躍している職人も多い。退職後も廣川はさらなる後進の育成のため、現在まで続く「アトリエ サルト」を東京・蒲田に立ち上げた。「仕事を教えてください!」そう言って、廣川を訪ねてくる若者は今も後を絶たない。一度も針を持ったことがなくても、イチから丁寧に教える。わからなければ、わかるまでとことん教える。とことん向き合う。頑張ったあとは、一緒に酒を飲む。それが廣川流だ。縫い方は学校でいくらでも教えてくれるが、職人の技術のコツを伝承してくれるところは限られる。少しでも多くのことを若手に教えてやりたいという想いは生徒にもよく伝わっている。だから、教え子にはいつまでも愛される。年に数回開かれる飲みの席では、廣川の元を巣立って行った数十名の教え子たちが一堂に集まる。これほどかつての教え子に囲まれるテーラーは他にはいないのではないだろうか。

 

東京洋服アカデミーで講師として熱血指導する様子。

 

 今年73歳になった廣川だが、そのバイタリティは昔と変わらない。今年4月に、台東区寿町に開校したメンズテーラリング学校「東京洋服アカデミー」の縫製担当講師に就任した。月・水・木の10時~17時まで学校で生徒に技術を叩き込みながら、それ以外の曜日にはアトリエで自身の仕事をこなす。休みはないが決して辛くはない。むしろ、楽しんでいるのだ。針を持たずにはいられない。一針不乱に、縫うことが楽しくて楽しくて仕方がない。糸くずで遊んだあの幼き頃から、廣川の心は何ひとつ変わってはいない。今では、メンズと同じぐらいにレディーススーツの注文が多い。肩からウエストへの流線的なシェイプや淀みのないパンツのラインが、体を美しく見せたい世の女性の人気を呼んでいる。職人の鍛錬に終わりはない。御歳七十三。廣川のさらなる活躍にぜひとも期待したい。

 

 

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